標高900mの畑、戸隠での野菜づくり

『農家日記』を付けていますが、その補遺のようなものです。
補遺というよりは、写真も貼り付けたりすれば、野菜づくりについては、こっちの方がメインの記録になるかな? (2017年3月1日)

松本に遊ぶ

この週末の松本は格別な好天で、松本の町の美しさが際立ちました。


小学校の同級会であり、泊まりは浅間温泉。3時のチェックイン時刻とほとんど同時にホテルに入り、持ち込みはまあ自由なので、飲んで話しました。


夕食後もなお飲んで離し、最後は3人が飲み続けて、その中には当然のように私がおり、何時に寝たのか記憶がありません。

先生によると、私は「じゃあ、寝よう」と言って布団に入ったら1分以内に鼾をかいて爆睡したそうです。
この先生は、小中高大学を通して私が最も敬愛するする恩師で、新卒の初任校として我々5年西組の担任になられて、我々が小学校を卒業するのにあわせて転任されました。


僻地で山村のその学校がもっとも印象深いと先生が言われるのは、まさにその通りなのでしょう。小学校卒業後は年賀状の交換をしてきて、40年も前に一度同級会らしきいものをした記憶があります。


もっと本格的な、泊りがけの同級会は昨年の今ごろ、私が幹事を勤めて、戸隠の私の馴染みの宿坊で行われました。幹事は、面倒なものではあるけど、あれほど楽しい幹事の仕事はあろうとは思えないほどで、私は連絡先を調べられる限り調べて、全員に電話をし通知は3回出しました。


みなさん懐かしがってくれて、田舎のことなのでいわば小中一貫教育のようなものですが、特に女子は私のとして40数年ぶりに言葉を交わす人が多くいましたが、30分以上の長電話となった人が何人もいました。


45人のクラスでしたが、24名の出席でした。亡くなった旧友が2名、病気の人が割合多くて5名、所在が分からない人が確か5名、、、。ですから、出席率はよかったですが、それは日帰りで一部だけでも参加できるように訪問・見学先を5つぐらい作ったせいで、泊まった人は今年と同じく13名でした。


こんな調子で書けば長くなるので端折りますが、昨年の集合場所は母校の小学校で、建て替えられたそこは10年も前に廃校になっていますが、それと同時に長野市立戸隠地質化石博物館になっています。


これでだけの同級生が集まったのは、いかにみんながこの先生を慕い、懐かしく思っていたかの証左です。


先生は、”私のようなろくでなしの教師が、、、”などと、謙遜して我々に言わるけど、全然違うのです。その、正反対。いくつかの大規模校の校長を勤められて、最後は長野県で最も名が知れている開智小学校の校長先生になられたエリートなのです。

学芸員の説明がポイントをついて心から感心しましたが、多い時には3千人の児童がここに通ったというのです。


一方で、先生が3年間勤務された分校は、美ケ原の中腹の標高1400mの開拓地にあり、6年までの在校生が、多い年で4名、少ない年では2名だったというのです。そこに先生(教師)は2名、、、、。驚くべき学校ですね。今は児童がいないので数年前から休校中ですが、まず復活の見込みはないようです。ここでの酪農と高原野菜の栽培は、結局うまくいかなかったわけです。


右側の先生が、我々の恩師、40歳のころです。これは、掲示されていた写真を撮ったものです。


一斉授業だと45分だかの授業時間でも十分にできた気がしないのに、学年が違う二人または4人の児童だと15分で済むとか、下の学年の子が上の学年の子が学ぶべきことを先に理解してしまうとか、、、興味深いお話を聞くことができました。


分校はむしろ優遇されていて、本校にもないエレクトーン(ピアノもちゃんとあるのです、、、)もあり、大型の望遠鏡もあり、予算は潤沢にあり、上記のように数名の児童に対して教師二人ということには、本当に驚かされました。


この分校からさらに高みに上って、写真を撮って二手に分かれて解散でした。長野県内のテレビ局すべてのアンテナがここに集中している美ケ原の頂上も、そこまでは行かずに見上げただけですが、このように澄んだ青空で、今日の明るい空と鮮やかな新緑は、夢幻のように私は今後思い返すだろし、現にこうして写真にも撮っているし、、、、。


また先生のことに戻るけど、長押に槍を掛けているような先生のお宅には、5回もお邪魔していて、年はちょうど一回り違うのですが、数多い教え子の一人に過ぎない私と、先生は嫌がらずに付き合って下さる、、、、。


それが、どうした?言われれば、昨年とにかく一度はと思って開催した同級会が盛況だったので、来年(つまり、今年、、、)もう一度、今度は先生のお住いの松本で昨日今日に実現したのですが、今後どうするかといえば、毎年6月に、、、と、生意気ながら私が主導して話をまとめてしまったからです。


昨年勝手に幹事をしてあれこれ連絡し、参加を誘った際に、これは一体なんという一つのクラスだろうと感嘆・感激したのですが、交通費を掛けて東京方面、また名古屋から参加してくれた人たちにも、今後毎年ということで異論はなし、、、。


先生がお元気で来られる限りは(そうは言いませんが)、今後毎年、、、。そういう、先生なのです。


幹事役は、今年は、私などよりは注意深く綿密なことができるY君がやってくれましたが、彼が持ってきたファイルを見て、また、今回のすべての場所を下見したということを知って、私は脱帽し、今後ずっとやってね、、、と。


幼稚園の園長をした同級生がいて、幹事補佐をお願いしました。「暴走しないでね」と言うと、「私にやれというなら、十分に暴走しますよ」と、言い返してくる、、、、。


何もかも、だれもいやな思いはせず(多分)、別れの際にはハグこそしないけど、男女問わずに固い握手をして再会を誓うのでした。

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